昨年中に書き終えるつもりだったのにまさかの越年。。
しかももう2月
気を取り直してそろそろ続きを。
では、今回は中学に入ってからを書いてみますか。
中学に入ると、当然野球部に入ったわけです。
硬式はないので軟式。
中学では、小学校にはない上下関係というシステムが確立されておりました。
したがって、
先輩には朝昼夕関係なくむやみやたらに挨拶しなければなりません。
もししなかった日には先輩の説教が待っております。
一体誰がこんな理不尽な制度を考案したのかw
まあ、でもこういう無理矢理さも時には必要なのですね。
その時期にこういうのがあったからこそ、
常識的な礼儀の原点が染み付いたのかもしれません。
現在、大人になって礼儀の必要性は当然のことのように理解できますからね。
しかし、上下関係は時として理不尽さを露呈。
どんなに野球の上手い一年生がいてもいきなりレギュラーに抜擢されることは
ほぼ有りませんでしたね~。
とにかく3ヶ月間は金具の付いたスパイクは禁止。
草取りやグラウンド整備、道具の出し入れや球拾いの日々。
まったく冴えない日々でした。
自分は、学校の部のほかに、スポーツ少年団という任意の団体にも所属しました。
これは、学校の部活終了後に この団体の指導者もと
遅くまで練習するというものです。
で、この指導者という人間が どうしても好きになれなかったのですねw
愛のある指導者というよりは、
とにかく厳しくとにかくしごく。
今思えば、まったく非合理的な練習の日々でしたね。
技術的な指導をしてもらった記憶は全くないですね~。
自分は投手だったのですが、
フォームの矯正や変化球の握りや投げ方を教わった記憶は皆無です。
とにかく無意味に連続ランニングを命じられたり、
しかし、この団体に所属しないとチームのレギュラーになるのはほぼ無理。
先輩も、どんなに理不尽で苦しい練習にも文句ひとつ言わずに
絶対権力者のその指導者の言うがままでした。
まあ 影ではみんなボロクソ言ってましたがw
そういう時代だったと言えばそれまでですが、
今思い出しても あの練習は何だったのか 甚だ疑問ではあります。
そんな毎日を送っていくうちに
あんなに好きだった野球がほんとに嫌いというかイヤになっていきました。
雨の日は体育館で筋トレという名のしごき。
夏休みは朝から晩まで 猛暑の中水も飲めない過酷な日々。
冬休みはこれまた体育館で地獄のダッシュや筋トレ。
それでも 辞めるといえば先輩に何を言われるかわからないので
じっと我慢の日々でした。
そんな日々だったのですが、
1年の秋には1年でひとりだけ背番号をもらい
秋の県大会に連れていってもらいました。
出番は無く、ベンチでスコアをつけるだけではありましたが。。
その県大会で最も印象的なのが、
その日の夜に宿舎で見た、カープのV2決定試合です。
衣笠のスクイズ、ギャレットのホームラン。
池谷の好投、江夏のリリーフ。
慶彦の9回の連続エラー などなどw
印象深い、優勝決定の日でした。
そんな日々を送っていた2年生の夏前。
なんか もう我慢が限界を超え、
あんなに好きだった野球を辞める決心をしたんですね~。
で、親にも言い、顧問にも言い、練習に出ることもしなくなりました。
そんな中で、顧問のK先生と親、自分の三人で面談もしました。
今思えば、とにかくあの現実から逃げたかっただけの気がします。
結局、辞める結論を出したのです。
が、
これは、今思い出そうとしても全く詳しい記憶が無いのですが、
何があったのか、何が切欠なのか
結局、野球部に戻って部活を続けることになったのです。
その切欠が何だったのか ほんとうにわからない。
出来ることなら、当時に戻ってその場面を見てみたい気がしてなりません。
そんな厳しい練習の毎日でしたが、
試合をすれば地区大会ではほとんど負け知らず。
常に県大会には進んでいました。
実際、その後、秋の大会では背番号13番をもらい
地区大会を勝ち抜き、県総体に出場。
代打でヒットも打ちました。これは鮮明な記憶があります。
県総合グラウンドで開会式をし、
江波中学校のグラウンドで試合をしたのを覚えてます。
当時は、いつも県東部の中学が常に上位に出ていた記憶があります。
自分たちは残念ながら県大会上位進出を果たすことはできませんでしたね~。
そうこうしている内に、自分たちが3年に。
この年は、自分にとって大きな転機の年でした。
夏の大会を控え、それに向かって練習をしていた7月8日。
練習中の事故により、ケガを負ってしまい即入院。
7月下旬の大会に出ることができなくなりました。
ケガをした箇所もそんなによくなくて、
自分自身の中で、かなりショックを受けました。
その後、二週間で退院はできましたが
その時は 自分の中で、
野球はもうやらないと決めていました。
夏休み中、一度も練習に出ることもなかったし、合宿にも参加しませんでした。
自分の中では、高校に行ったら硬式をやるんだと密かに思っていましたが、
その夢も破れてしまい。。。。
そんなショックもあったのかもしれません。
そんな中で、9月のある日。
2ヶ月も野球をやっていない自分に、
ほんとうにそれでいいのか?と自問自答。
遠い目標はなくなったけど、今からは野球を楽しもうと思いなおし。
それから気が楽になった気がして、クラブに復帰しました。
最後の秋の大会には間に合い、決勝戦まで勝ち進みました。
背番号は8番と、エースナンバーではなかったのが残念ですが、
決勝戦は最後のマウンドを任せてもらい、
延長戦を 0-0の完封。引分けに終わりましたが、くじ引きにより優勝。
最後に良い思い出が出来ました。
そんな中学時代の回想でした。
思い返して。
やっぱり勝とうと思えばそれなりの厳しさは必要。
もちろん、勝つ喜びというのは ほんとうに大切だとも思います。
しかし、厳しいだけ というのは ただ苦痛なだけ。
スポーツの基本は明るく楽しく。
子供には、楽しいと思えるのが本当のスポーツだと、
今 思います。
そんな時代。
自分たちのヒーローは
一番 ショット 高橋慶彦 背番号2。
当時のカープは まさに 黄金時代。
毎年 優勝争いをしていた時代です。
そんな中、
あのカッコよさ 爽快さ ハツラツさ
20代前半で、広島から全国の人気をさらった
ヨシヒコの姿は、今でも鮮烈です。
あんな選手、もう出てこないのでしょうかね~。
そんなチームの復活を願ってやまない今日このごろです。
やっと中学まで終了。
いつのことになるかはわかりませんが。
気が向いたら
次回は、最終回。高校時代を書いてみたいと思います。
いつもあらゆる視点からの鋭い見解をお持ちで、読んでいてとても楽しく勉強になっています。
広池選手の、入団への道っぽくて、早く最終章が読みたいです!
コメントありがとうございます。
最近はすっかり更新も滞りがちなこのブログなのですが、
見ていただきほありがとうございます。
なんか申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが。
また、時間を見て最終章を書いてみたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
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