それからかなりの間が空いてしまいました。
中学を卒業後の高校時代を書いて、最終回にしたいと思います。
中学三年時のケガにより、野球自体を辞めようと考えた事もありました。
それは思いとどまり、楽しく野球を続ける事にして、
地元の高校に進学。
そこには軟式野球部しかないため、必然的にその部に入部。
入学式前の春休みから練習に参加。
部の雰囲気はというと、
基本的な上下関係はあるものの、いわゆる軍隊式の絶対的なものはなく、
常識をわきまえた大人な感じ。
そんな中にも、フランクさもあって居心地のいい環境でした。
部員もそんなに多くは無く、20名程度。
また、結構な伝統校でもあり過去には中国大会にも出場したことのある
そこそこの強さのレベル。
中学のときに描いていた理想的な環境でしたね~。
練習は基本的に毎日の放課後。
日曜練習は大会の数週間前だけといった感じでしたかね。
一年時から試合にはそこそこ出してもらえる
といった感じで過ごしましたが、
守備は投手ではなく外野。
特に外野ノックは大好きでしたね~。
打球判断。フライの下に素早く行くための感覚を養い、
送球は、カットまでではなくて常に本塁にストライクを投げるイメージで。
とにかく、シート打撃でも自分のところに打球が来いと願いながら守っていました。
外野守備って、野球をしない人にはとっても退屈そうに見えるかもしれませんが、
ほんとに考えることがたくさんあって、ほんとに楽しいんですよw
あと、バッティングはもちろん好きでした。
中学のときの同級生も同じ部に入ったやつもいまして。
サードのヤツがそうだったんですが、
シート打撃のときは、そのサードの三塁線を破るか、捕られるか、
いつも張り合ってた気がします。
自分は左打者なので、流し打ちで狭い三塁線を狙っていました。
ベースの上を抜いてレフト線へ転がすのは快感ですね~w
その当時、その流し打ちのお手本にしていたのが、ジャイアンツの篠塚でした。
あの柔らかいバットコントロールは、憎っくきチームながら流石と思っていました。
まあ、流し打ちばっかしやっていたわけではなくて、
自分なりに色んなことを考えながら打ってました。
今日は、センターオーバーしか狙わないとか、
今日は、一二塁間だけしか狙わないとか。
時には、チームメイトとフェンスオーバーの競争をしてみたり。
どっちが飛距離が出るかとかね。
そんなある程度の自由さの中で練習して、試合で結果が出ていたことあもって、
楽しい練習を毎日していたような気がします。
話しは脱線しますがw
練習後に、後輩に近くの店に買出しを頼んで
勝ってきてもらう、カップヌードルチリトマト味。
あと、冬は肉まん。
最高に美味かったですw
チリトマト味は今でも無性に食べたくなることがありますね~~。
入部の一年時のエースは二年生だったため、
一年の途中からは二番手の投手として投げさせてもらえるようになりました。
当時も、広島商業 広陵 崇徳 といった硬式の強豪高には
軟式野球部がありました。
そんなチームとも練習試合をさせてもらうこともありましたね~。
ユニフォームは、軟式とはいえ子供の頃から見ていたあの同じユニフォームたちでしたw
正直、羨ましかったですね~w
そんないい感じで、毎日の練習をこなし、
初めての地区大会。
惜しくも決勝で敗れて、県大会には進めませんでした。
キャプテンが骨折で試合に出られなかったのが大きな敗因でした。
二年になると、二番手の投手から段々と一番手に先発されてもらうことが増えました。、
外野では常にレギュラーで出してもらうようになっていました。
打順はあんまし記憶が定かではないですが、3番とか6番だったような気がします。
二年になってからの練習試合、地区大会では、
負けた記憶がありません。県大会には春夏秋と出場していましたね~。
福山、呉 広島県営球場 と県大会に行ってました。
しかし、県大会では、
ニ回戦突破がやっとといった感じでした。残念ながら・・・。力及ばず。。。
当時は、さっきも書いた 広商 広陵 崇徳 のほかにも
広大付属、広島学院 盈進 といったチームが強かったんですよね~。
田舎のチームだったんで、市内のチームへのコンプレックスがあったわけではないのですがw
でも、手も足も出ないといった試合ではなかったと思いますけどね。
僅差で惜敗といった感じでした。
中でも、最も印象に残り思い出深いのは、
2年の春に二回戦で対戦した 広陵高校との試合ですかね。
相手投手は、左の本格派。真っ直ぐが速く、カーブも大きい。
なかり手ごわい投手でした。
この試合は、自分が先発をさせてもらったのですが、
あまり調子は良くなく、毎回走者を許す苦しい展開でした。
が、外野・内野ともに好プレーの連続で相手に得点を許しませんでした。
そして、両チーム無得点のまま延長戦へ突入。
軟式は、決勝戦以外は7回戦で試合をしていました。
両者譲らず、イニングは進んでいき、
延長10回裏に願ってもないチャンスが訪れ、二死2塁。自分に打席が回ってきました。
カウント1-1から、ベンチのサインはまさかのヒットエンドラン。
監督は、セオリーでは考えられない一か八かの大勝負に出たようです。
自分は、そんな意識が全く無くて油断そのもの。サインを完全に見落とし。
走者は三塁盗塁失敗で、憤死。
何とも情けなくて悔しくて。
その次の回。
ヒットや四球でイピンチをまねき、相手投手にヒットを打たれ決勝点。
その後見方のエラーも出て0-2。
結局、そのまま敗戦。
名門に勝てるチャンスだっただけに ほんとに悔しかったのを
今でも思い出します。
先日、この試合のスコアを自分で持っている見直してみると、
170球という球数。
その時には疲れは全く感じていませんでしたが、最後の回には
明らかに疲れて球威が落ちていたんでしょうね~。
四球やらヒットやらボロボロでした。
やっぱし、野球はプロで無い以上は、ある程度楽しさが必要だということを
高校と中学の野球部での生活を通じてあらためて感じます。
スポーツであり、遊びではないので、
ある程度の節度は必要だと思いますけども。
そして、ある程度勝負にも勝てること。
スポーツですから、やっぱりある程度は勝てないと楽しさも半減するとも感じます。
そんな、有意義な高校時代の野球部生活でした。
まだまだたくさんの記憶がありますけど、今回はこのへんで終了いたします。
その後の生活では、実際にプレーすることはなくなりました。
大学時代には、スポーツの授業でソフトボールを選択して
やっていましたが。
これもまた、かなり楽しかったですけどね。
と、つらつらと自分の野球史を振り返ってみましたが。
そういえば。
自分のプレーだけでなくて、
この時期のカープについても少しだけ。
1年の夏休みに初めてカープを追いかけて東京に行ったんのでした。
東京の親戚の家に泊まって、神宮三連戦を観戦。
当時から、東京のカープファンは非常に熱かったですね~。
広島とは比べ物にならないくらい熱かった。
応援団も楽しい応援がたくさんあって。
当時のレフトスタンドには、
『左翼の鯉』と書いたハッピを着ていた応援団がいたと記憶しています。
ラッキーセブンには、忍者の恰好をした人が現れて面白いリードをしてました。
試合は 何と連続サヨナラ負けを食らうという何とも情けないものでしたがw
当時、神宮では異常に弱かったんですよね~。
神宮には魔物がいる って言われてましたっけ。
若松、レオン 杉浦 岩下 角 梶間 尾花 矢野 荒木 などなど
個性溢れるヤクルトの選手たちが記憶にありますね~。
そんな自分の野球史を数回に渡って振り返ってみました。
また 機会があったら 思いついた昔の事でも書いてみたいと思います。
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